2023年02月27日
何となくの体の記憶って、何となくだからわかりづらいけど、たまに確信を持って意識に上がってくることがある
今回実家に帰ったとき、すぐ近くを新幹線がバリバリに走っていて
初めて、新しくできていた車両基地駅に散歩がてら行ってみた
大村湾の方向に沈む夕日
見慣れた、いつもの景色のはずだけど、それは、見たことない夕日だった
駅ができて、線路ができて、信号ができて
そのためになくなった倉庫や、近所の家々や、小道、小川
そりゃ変わるはずだ
新しい夕日に、少しだけ切なくなったのは、景色が変わったからではなく、自分が既に、新しい景色に馴染もうとしていたからかもしれない
ここには家があって、畑があって、田んぼがあって、、
細かいことは、思い出せなかった
こうやって忘れていくんだな
忘れることは悪いことではない
むしろ、わたしたちは忘れないと生きていけない
忘れることを選ぶ
取捨選択は、大事なことだ
出来事そのものというより
出来事について、何を覚えているかの取捨選択は、大事だとつくづく思うのだ
それは、スキルかもしれない
「忘れる」には、センスがいる
昔と比べて
最近、自分が薄くなってる気がしている
よくいえば、透けているというか
大葉とかキャベツばっかり食べてるからだろうか 笑
空気が透き通っていく夜に近い夕日
昼間の青空と違う青
昼間の太陽と違う光
夜に落ちる寸前の透明度
この空気のひんやりと染み渡る耳鳴りのような透明度
この濃度が
薄い自分にちょうどいい
言葉は、あきらかに繊細に、簡単になっている(自分比)
ダイレクトに、強いもの、インパクトを重視していた時期もあった
特に、自分で歌をつくっていた全盛期は
そして、その言葉に見合う自分でありたいと思っていた
人の心を打つ自分でなければ、表現者とは言えないと思っていた
強く強く憧れた
今、言葉は小難しさを捨て、そんな強くてかっこいい自分はいない
そもそも、なんでそうなりたいと決めたのか
今となっては、謎だ
歌も歌わなくなった、今となっては
でも、当時の自分の歌が鼻歌で出ることがあって
まるで、知らない人の歌みたいだなと思う
あの頃の自分は、知らない人みたいなものか、とも思う
体の細胞はほとんど入れ替っているだろうし、繋げているのは心許ない記憶だけだ
それにしても、投げかけるのを止めない、止めることができないのはなんでだろう
こうやってブログを書いたり、インスタに写真をアップしたり、歌を歌ったり
わたしはなぜ、投げかけようとするんだろう
きっと、それこそがわたしの領分
なぜ投げかけるのか
何を、ではなく、なぜ
それがわたし
そして、投げかけたわたしが、わたし以上になって帰ってくる時
わたしは、わたしを超えたところで、その意味を纏い出す
意味は、意味を持ち
それから
わたしは初めて、わたしを知るのだ
ならば、笑いかけよう