2020年12月01日

静かだ
はらり、ともみじが落ちる
静寂は、耳鳴りの音域で
自分の中からも、倍音のように広がっていく

少し前、「小泉八雲の耳」と題した、聴くことをテーマにしたワークショップに参加した

講師は、九州大学の名誉教授で、音楽家の藤枝守先生
それから
「聴く」ということについて、考えている
私は、見ることにたけている
視力がめちゃくちゃ良くて、お陰さまで、裸眼1.5をキープ
音楽をやっていたので、聴くことも比較的やってきてはいるものの
コミュニケーションに関しては、見る方が情報が早く強いから、そっちの感覚をより採用している気がする
きっと
聴くためには、自分が静かである必要があるんだな
まだ私は、ガチャガチャと色んなことを考えているし
「わかって欲しい」と、どこかで思っている
「わかって欲しい」ということは、「わかってもらえない」と思ってる訳で
伝えなければ伝わらないから
伝えようとしている
でも、聴くことは、伝えたい、の向こう側にあって
それは、伝わることに確信の持てている世界
自分を伝える必要のない世界
伝わるから伝わってくる
見ることは、能動的で
聴くことは、能動と受動のニュートラルなライン
ああ、そうだ
目は閉じることができるけど、耳は閉じることができない

私たちは、お母さんのお腹の中にいるとき、全身を使って聴いているらしい
私たちは、聴くことから始まる
そういえば、バイト先のボスが、お父さんを看取る過程で最後まで残ったのは、聴覚だったと言っていた
見えない、話せない、動けない、だけど、聴こえていた気がしたそうだ
私たちは、聴くことから始まり、聴くことで終わっていく
「聴く」という感覚は、命に一番近いのかもしれない
ただ耳で聞くのとは少し違う、全身で聴くということ
見えないものが、見えてくる気配がする

満月を聴いてみる
何か聴こえてくるだろうか